マイケル・ケンナ写真展 A 45 YEAR ODYSSEY 1973-2018 に行ってきたよー。の感想。
マイケル・ケンナ大好きのymnです。
この前の日曜日に行ってきました、マイケル・ケンナ写真展。いやー、すごかったです。
ケンナは好きですが、自分はちゃんと写真を学んだわけでもなく結構適当に撮っている人間なので、撮影技術がどうとか現像の仕方がどうとかについては語れないです。
だけどやっぱり自分なりに衝撃というか、感銘というかをたくさん受けたので、自分が思ったこと感じたことをちょろっと書きます。
すぐに作品撮影を諦め、写真集を購入。
これまでケンナの作品は公式ページなんかで断片的にしか見たことがなかったので、1973年から年代順に会場を一周するように一線に並べられた作品は圧巻でした。白い部屋にモノクロの写真だけが並ぶ美しい光景。
自分はもともと海の長時間露光の写真に惹かれてケンナを知ったんですが、なんでこんなに惹きつけられるんでしょうか。彼の作品は。
今回のケンナ展、メインの「A 45 YEAR ODYSSEY 1973-2018」に関してはなんとすべて写真撮影OK。ナチスドイツの強制収容所を撮った連作「Impossible to Forget」と、日本の古い家屋で撮影された日本人女性のヌード作品「Rafu [裸婦]」の特別展示のみ撮影禁止でした。
特に気になった作品だけ、写真撮るかーと思ってましたが、
いやー。ケンナ大回顧展。写真オーケーっていうから気になったの撮ろうと思ったけど、1枚撮ってまったく無意味なことを悟り、黙って写真集買いました。
この通り。
そもそも写真以外のアート作品ならまだしも、写真作品の写真を撮るのってなんの意味があるのかっていう話ではあるんですけど。
なぜケンナと同じ写真が撮れないのか。
ケンナの写真について、自分が好きなところを同義のものも含めて思いつくままに挙げてみると、「構図、切り取り方、レイアウト、曲線、直線、比、コントラスト、グラデーション、光、色……」等々たくさんあります。
ただ展示の終盤に差し掛かったときに、「もし自分が彼と同じ時間、同じ場所にいて、同じ機材と同じ技術を持っていたとしたら、同じ写真が撮れるだろうか」という問いが頭に浮かびました。
もちろん時間も場所も、機材や技術についても、それを選択すること自体がケンナの写真であることは言わずもがなです。でもそこまで同条件だったしても「撮れないな」と思いました。
彼以外の写真家やアーティストでも同じだと思います。同じように表現出来ないのは当たり前です。でもその当たり前の中にある個々の要素に向き合っていくことは、写真を撮ったり、作品を作ったりする上で、自らの表現の幅を拡げる練習になるのではないかと思います。
なぜその被写体を選んだのか。なぜその時間を。なぜそのタイミングで。なぜそのカメラで……。挙げ始めればキリがないなぜの数々。その要素一つ一つについて「なぜ選んだのか」を考える。なかなか取り組みがいがあると思います。
なぜケンナと同じように撮れないのか。そのことについて考える、そして行動することを、しばらくの自分の写真活動のテーマにしてみようと思います。ではでは。